ドラマ『ベイビーわるきゅーれ』のエンディングソングで流れていた『包帯』。
私がTeleと出会ったのはこのドラマがきっかけだった。ドラマで流れる音楽にハマるかどうか、少なくともそのドラマにどれだけハマるかも関係しているように思う。『ベイビーわるきゅーれ』は映画の人気を受けて異例のドラマ化を果たした作品だ。かく言う私も、このシリーズが大好きで。そういった背景もあり、この曲を好きになるのも時間の問題だったのかもしれない。『ベイビーわるきゅーれ』はふたりのJKが暗殺業をばちばちのアクションでこなす、バイオレンスな内容である。しかし、その暴力的な非日常の合間には、ほのぼのとした日常が織り込まれていて、そのギャップが非常に中毒的だ。ポテトチップスの塩味と麦チョコの甘さで無限に食べられるような、そんな感じ。特殊な世界観の余韻で流れる『包帯』もまた、甘い辛いが共存しているような曲である。
日常の中の”死”
『包帯』は優しい歌声とポップな曲調とは裏腹に、“死”をテーマにしている。
その曲調から、ふたりのJKが暗殺という非日常から、普通の人が過ごすような当たり前の日常に戻っていくような、そういったイメージが浮かぶ。だが聞けば聞くほど、“生と死”というか“生への価値観”についてメッセージを持っていることがわかる。
”忌諱からくる庇護し合いは 外来の花が育つようで水面を全て埋め尽くした 美しく息が詰まる””日々絡まる 譲り合いはコンセント積もるほこりの匂い ある朝すべてなくなってしまっても多分いいんだろう”
この歌詞から、日々の「生きづらさ」がひしひしと伝わってくる。いや、当人はそれを辛いと感じていないかもしれない。衝突を避けたくて、本音を言わずに日々をやりすごす。その結果、心のエネルギーは外に漏れて、自分の外側ばかりが取り繕われていく。そりゃあ息が詰まる。気を遣う「譲り合い」も、ほこりのように無意識のうちに日々積もる。他人事のように生きているから、ある日すべてがなくなっても、未練はないのだろう。
”木々さざめく庭の端で爪先立ちを繰り返す 諦めた後啜る珈琲は 少し甘い””ダクトに流れる暮らし 額縁の中にしまう後悔”
「隣の芝は青く見える現象」なのだろうか、庭の端から自分の理想を眺めている様子がうかがえる。諦めた後啜る珈琲が甘いということは、諦めきれないときは珈琲が苦かったのだろう。本音で生きる人生を諦めたのだろうか。「嬉しい」も「楽しい」も、排気ガスのように日々流れ去っていく中で、「後悔」だけは何度も省みてしまう。”額縁の中にしまう”そういう表現方法があるのか。
”馬鹿げている世界を踏み越える度に悲鳴が響いた””解けてゆく君の身体 心も包帯のようだった”
「馬鹿げている世界」とは、他人事のように自分を遠ざけて生きた世界のことを指すのだろう。それを踏み越えると、過去の自分から悲鳴が聞こえる。
「包帯」は、傷を守るものではあるけれど、ここでいう「包帯」は自分の表面を覆っていた仮面という意味なのではないか、と思う。馬鹿げている世界を、”死”という形で終わらせたのだろうか。明記はされていないが、”生”への執着がないことは確かで、それがTeleの価値観なのかもしれない。
自分の解釈を綴ったあとで
自分の解釈を思い思いに綴ったところで、「本人談」が既に公開されていることを知った。自分の感じたこととは異なる見解も多いけれど、それだけこの曲が多層的で、様々な意味に読み解ける余地があるということだ。表現者である。
「日常の中に死があり、生きるとは毎日『死を避け続けている』」という考え方。どうやって生きてきたら、こんな感性が育ち、こんな言葉を紡げるのだろう。Teleの表現に触れる度、自分の日常に名前をつけたくなる。